風大丸亭日乗

元大学教員、双極性障害、本と音楽と映画、そして毎日は続く

推理小説とフォークナー

今日も午後から授業。意外に早く終わったので、娘の迎えに行こうと車を発進させた途端、ガクガクと振動音が。守衛さんに「パンクしてるよ!」と言われて、慌てて近くのタイヤショップに。なるほど、左前のタイヤがペチャンコになっている。イタズラでもされたのだろうか。ちょうど車を修理に出していて代車だったので、面倒なことにならないといいなと思いつつ、とりあえずスペアタイヤに交換してもらう(結局、それで間に合わなかったので、子供たちの迎えは妻に行ってもらった)。

フォクナー〈第13号〉特集 フォークナーとミステリー

フォクナー〈第13号〉特集 フォークナーとミステリー


なぜかいきなりフォークナーの雑誌。順調に刊行が続いているようで慶賀の至り。この特集の中の佐々木徹「推理小説とフォークナー」のコピーを著者から送ってもらっていたので読む。まず、ポーを始祖とする推理小説史の記述は、まさに痒いところに手が届く決定版。36頁から展開される「推理小説は人間を描きうるか」という問題は、いまでも有効な議論で、日本でも(トリック重視の)本格派に対して、松本清張のような社会派が現れたし、新本格ブームが巻き起こった当時も、やはり同じような批判がなされたことを想起する。結局、あくまで推理小説に殉ずるか、推理小説をひとつの要素として小説を描くのか、という問題だろう。僕は「趣味的には」推理小説を偏愛しているし、それがなにか応用できたらと思って研究を続けてきたのだが、いわゆる正統的な文学には、ミステリの要素が散見されるにしても、プロパーな推理小説作家では「ない」小説家は、「推理小説という芸術」(ポー)、簡単に言うと推理小説のフェアプレイの精神を理解していないことが多く、あくまでもミステリは作品中の小道具に留まっている。お前はそれで博士論文まで書いてなに言ってんだ、と批判されそうだが、推理小説として完成されていて、なおかつ「小説」として成立するのは、実はすごく困難なのではないかと思うようになってきた。最近、つくづく思うことだが、書評家やミステリ研究者も、ただ推理小説を読むだけではなくて、英米文学の研究者(若島正巽孝之のような)もしっかり読み込んでいる。とすると、仮にも研究者の看板を出して、お給料をもらっている僕のような存在は、一体どこにアイデンティティを見出したらよいのだろうか?そんなことブログに書かれても困る、と思うかもしれないが、少なくとも僕にとっては深刻な問題だ。大学院時代からこっち、やれデリダラカンだと、いろいろとやんちゃをやってきたが、ここらで真摯にテキストと向き合って、実証的な研究をやらなければならないかと思い始めている。ともあれ、この雑誌の特集は面白そうなので、購入してみることにしよう(たぶん、フォークナーも上記のジレンマからは逃れられていないとは思うが)。