風大丸亭日乗

元大学教員、双極性障害、本と音楽と映画、そして毎日は続く

三村 尚央 「『充たされざる者』をシティズンシップ小説として読み解く」 『カズオ・イシグロの視線 記憶・想像・郷愁』共著(作品者,2018年)書評

 この評論集の目次を一瞥して、評者は驚きと戸惑いを禁じ得なかった。なぜなら、著者が論じているのが『充たされざる者』だったからである。もちろん、評者はイシグロの研究者ではないが、小説家としてのカズオ・イシグロの一ファンであり、少なくとも全作品を読んでいる(つもりである)。それは彼の作品群が優れた文学性を有している一方で、エンターテイメントとして成立しているからに他ならない。しかしながら、どうしても楽しめなかったのが『充たされざる者』である。文学的評価はどのようなものかはともかくとして、何度、途中でやめようと思ったか分からない。よりによって厄介な作品を取り上げたな、というのが正直な思いである。

 『充たされざる者』は、ある種の寓話として考えるならば(少なくとも私はそう読んだ)、それゆえに「つかみどころのない」小説である。開かれたテクストと言ってしまえばそれまでだが、そこには作者が物語を構築する意図を放棄しているように思われた。つまり、なぜキャリアの中期にこの作品を書かなければいけなかったのか、というのが、長い間の謎だったのである。更に付け加えるならば、イシグロのその以外の小説は、前期の小説においては、イギリスと日本の間の二重の(自伝的な)葛藤、そしてフィクションの要素が高まった後期作品もまた、突き詰めればアイデンティティの問題が通奏低音になっているように感じられる。すなわち、「私は誰であるか?」という、ある意味では語り尽くされた問題である。そこをいかに読ませるかが、イシグロの「語り」のテクニックなのだが、それはここでは措く。

 そうした前期作品と後期作品のターニングポイントとなった『充たされざる者』に、著者は補助線を引いてくれる。それはこの作品を政治的に読む試みであり、軸となるのはシティズンシップという概念である。冒頭にまとめられているように、この作品を前期から後期につながる作家としての進歩として、この作品の解釈がこれまで行われてきた。そして、「インターナショナル」、「グローバル」、「コスモポリタン」という主題を提示することで、イシグロは前期作品の日本とイギリスの二重のアイデンティティを有する苦しみを乗り越えたのだと(90-91)。しかしながら、著者はそうした国家とは無縁の存在として、主人公のライダーを位置づけることを否定する。「「・・・常にアウトザイダーであるイシグロ自身のコスモポリタン作家としての状況に対する自己バロディである・・・」」と指摘する論者もいる。しかしながら、著者は主張する。誰もがみな、国民国家や共同体の頸城から逃れられないことを「シティズンシップ」は教えてくれるのだと(110)。

 「シティズンシップ」は、著者が慎重に論じているように、年代によって左右される政治的構築物の行動原理である。議論を進めるために、分かりやすい例を引いてみる。「「ある特定の共同体における成員資格と」として、「「市民としての権利と義務が付随していた」」(90)」。著者はこの概念を物語と見事に接続させて見せる。この「町」では<木曜日の夕べ>と呼ばれる音楽会、あるいはスピーチが開かれる。注目したいのは、著者が言及するのが、「「ただいるだけでも許されて保護される」」という社会的弱者である」という点である(99)。老指揮者ブロッキー、若きピアニストのジェニファン、音楽家のクリストフ、政治家のマックス・サトラーは、かつての失敗を取り戻して、再び共同体で承認されることを目指している。さらに彼らはコミュニティの階段を上ることが、個人的な問題を解決することに繋がっていると信じている、というのは重要な指摘である(103-4)いわば社会と家庭、このふたつは循環構造を成しており、政治的構築物を強化する役割を担っているのではないだろうか。

 著者によると、これまで論じてきた「シティズンシップ」に対して、新たな動きとして「道徳的シティズンシップ」が起こったという(102)。その結果、「政治的行動」と「道徳的行為」、方向は正反対であるにも関わらず、いずれにも「自主的に社会参加せよ」という要請があるという「ねじれ」(103)が存在することになった。言うなれば、政治的な承認を模索する精神と、他者に対する献身的な精神が、図らずも同居したということになる。前述の「ただいるだけでも許されて保護される」社会的弱者がこれに当てはまるだろうか。彼らは共同体において、承認はされないが、また排斥もされないのである。このように考えると、作品の舞台となる「町」は、イギリス全体のカリカチュアだと思えてくる。こうした「シティズンシップ」の概念が。子供にまで及んでいるという点で、ボリスのエピソードは象徴的である。個人主義理念を反映するライダーの友人の言葉に従って、ボリスは自分の技術を磨き「何でもできるようになる」(105)大人を目指すことになる。ここで奇妙に思われるのは、フランス語の本を読んだり、風呂場を修繕したりするボリスの能力は、「スキル」ではあっても、「職能」ではない。おそらく「町」の人々は、それぞれ決められた職業に従事し、コミュニティはそこで完結しているのであろう。だからこそ、ライダーはアウトサイダーであり、承認を得ない限りは、定住することのない、単なる「よそ者」(この場合、「コスモポリタンは嘲弄になる」)として扱われるのである。

 最後になったが、付記の「生物学的ナショナリズムについて」(評者はいまひとつ理解が出来なかったのだが)で、シティズンシップが国民・国家を超えて、「資本経済の領域」に及ぶ、という箇所がある。実は評者の頭にも常にあったのは、このことだった。今回の政治的側面を踏まえた上で、貨幣的なシティズンシップ論を書いてもらいたい、というのがお願いである。

 蛇足に蛇足もいいところだが、義母がこの作品を読んで「分かった!」と言ったことがある。さまざまな事情により、「もう顔も見たくない」関係になってしまったので、いまとなっては、なにが分かったのか謎のままだが、あの時に聞いておけばよかった、と後悔している。